ジョン・ウィリアムズ『ストーナー』
久しぶりに、心臓が高鳴るような読書をした。ジョン・ウィリアムズの「ストーナー」。20世紀アメリカの農業地帯に生まれた一人の男が、抗いようのない外的環境に身を委ねながら生き、死んでいく。静謐で凡庸で、それでいて先へ先へと催促を止めることのない一冊だ。
この本を読むのは初めてではなくて、一度目は中学3年のことだったと思う。最初からこの本が特別になると察していたのだろう、普段は図書館に頼りきりの自分が珍しくハードカバーを買って、読み終えた後には友達に貸して回りもした記憶がある。それからずっと、書棚の隅で埃を被りながら他にない輝きを放つ特別だった。
読んだ頃の気持ちに立ち返らなければいけない、と思って6年ぶりに手に取った。どんなものであれ、やはり二度目以降のインパクトというものは乏しい。しかし乏しいながらにして、夜なべしての黙考を止められないほどには衝撃を与えてくる一冊だった。
人生とは何か。人生に何を期待するのか。ストーナーが迫るこの問いの存在は、一度目に読んだ時よりもますます差し迫ったものになり、答えの所在は漠として知れない。決して書評が書きたかったわけではないから、説明も感想も半端のまま終わりにしよう。ただ、この本が教える人生の輝きと、深く確かな諦観に飲まれてしまいそうになった現在の気持ちだけを残しておきたい。
リハビリテーション
オンライン授業、バイト、サークル、恋愛、運転免許、 すべてに必死になりすぎたのかもしれない。等しく力を注いでみた末、自分はつぶれてしまった。つぶれかけながら、健全な精神を保つための健全な慣習を取り戻そうとしたけど、それはもとより困難な話だった。走りながら体制を立て直すことなんてできない。私は一度立ち止まるべきだった。
エーリッヒ・フロムを、小山田咲子を、絲山秋子を読んで、川に根を張り、神社に祈り、音楽の一曲一曲に聴き浸ろう。ごはんをていねいに作ろう。関わる人の一人一人を大切にしよう。今からでも。
今さら自分を大きく変えることなんてできない、自分が好きになれる自分を日々目指していくしかない。
勉強が全てでも、お金が全てでも、友人が恋人が全てでもないということに、今ようやっと気づくことができたというだけの話。
5/5~5/10(2020)
5月5日
今日は……何をしていたんだろう。蒸し暑い日。
昼。日本史の本と人類学の本を読んだ。
日本史、きまじめに旧石器時代から読んでたら全然盛り上がらない。
人類学、まだ序盤だけど面白そう。アフリカや中国の、インフォーマルセクターと呼ばれる(しばしば非合法の)経済活動で日銭を稼ぎ生きる人達の話。常に未来志向を迫られ続ける日本にあって、今日のために働き今日を生きている世界のことを考えるのは、新たな苦しみを生んでしまうとしても大事なことだと思う。
夜。友達とNetflixで「ノーカントリー No Country For Old Men」を観る。友達と、と言っても、チャットしながら観てただけだけどね。年老いた保安官が、麻薬取引に関わる殺し屋が起こす殺戮事件を追う話。友達に薦められるがままあらすじを知らずに観たから、受け身を取れないままスリラーな展開に晒されてしまった。
友達は監督のコーエン兄弟を”文学的な監督”と評していたが、なるほどその通り、時間が進むにつれて見る側に理解を委ねる間接的な描写が増えていった。映画なのに空白が多い。話を追うのに神経を張り詰めさせてるから、どんな凄惨なことが起こっても心を動かす暇がなかった。全く新しい映画体験。でも友達と一緒じゃなかったら観るのは勘弁してほしい。
5月6日
ノーカントリー、一日経ってもまだ心を支配してくる。
地震。雨、雷。
いろんな人がライブをやったり音源を公開する日だったので、ずっと音楽を聴いていた。女王蜂、ずっと真夜中でいいのに。、tofubeats、DAOKO。一曲ごとに感情が作り変えられていく。後退したり亢進したり。ちょっと外部のものに感情を乗っ取られ過ぎかもしれない。本の一冊ごとに、あるいは映画一本ごとに感情を揺さぶられるというならいいかもしれないけど、音楽の一曲ごとだったらテンポがよすぎてしまう。
我を乱されずにいるには体を動かすのがいいって気づいた。走ってみたり筋トレしたり。僕は体育の授業中に気絶するほど虚弱なので…と、卑屈なプライドを振りかざして運動することを拒んできた半生だったけど、危機下のあまりにも膨大な暇を機にランニングだとか筋トレを始めてみたら、いまの悩みも自然と棚上げされてなかなかいい気分になった。運動すなわちスマホのメモリクリーナーって感じだ。余分なところだけがうまくさらわれていく。
音楽に乗っ取られすぎないようにするのにも、だから運動を持ち出したいところだったけど、今日はあいにく深夜まで雨が降り続くらしかった。また明日だな。筋トレしようにも家ではする場所がないし。
5月7日
久しぶりに陽光を浴びた。まだ揃ってない大学の教科書を買いに本屋へ行ったが、本屋に教科書はなかった。ウェブサイトには在庫有りって書いてあったんだけどな。
お出かけしたら頭が痛くなってきてずっとamazarashiをかけて歩いた。日光を浴びたから頭痛がするのか、頭痛がしたからamazarashiを聴くのか、amazarashiを聴いたから日光を浴びるのか?? とか考えていた。
堅実に書き続けられるようになるのが最近の望み。たまに立ち現れてくる詩情を絞り切るようにして、1年に何回かだけ望むような言葉を生むより、そこそこの出来でいいからコンスタントに書き続けていたい。詩情の表れを待たずこちらから迎えに行くという常在戦場の気持ちがあれば、できそうな気がする。
5月8日
今日はバイトに行った。今月最初にして最後の勤務。働いている喫茶店は、利用時間制限を始めたからか過去イチでお客さんが少なかった。あんまり暇なのも疲れる。
夜はイエメン料理(とネットで呼ばれていた料理)を作りました。トマト使ってたし、スパイス使ってなかったし、イエメンよりイタリアと言われたほうがむしろ納得してしまうような味だったな。こうも消化不良になると、スパイスをガンガンに使うバチバチのイエメン料理を作りたくなるな。イエメンにはなんの縁もないけれども。
なんとなくおいしそうな知らない国の料理を作ると、暮らしに張り合いが出ていいです。クックパッドとかのおいしそうなレシピは結局家庭的な発想の範疇を超えないので、何を作ったってそんなに驚きが生まれない。それに対して、あまり馴染みのない国のレシピだと、自分の料理センスを突き抜けた食材の組み合わせを強いられるのでどうしたって新鮮な味になる。肉じゃがやハンバーグで失敗したら自責の念に駆られるけど、前例のない料理だったらそれを言い訳に強気でいられるしね。
宇多田ヒカルの”time”の発売日でした。もう二度と会わないかもしれない、過去の人のことを思い起こしながら聴いています。最近の宇多田ヒカルは、一つの人間存在への莫大な愛情を描きがちな気がする。それが心に突き刺さります。
5月9日
夜がなtimeを聴いていたら、そのうち鳥のさえずりも混じって聞こえるようになってきた。新曲で徹夜してしまいました。冷静になったときにはもう空が白みだしていて、睡眠を諦めて川を散歩した。夏至にはまだ早いけれど、既に4時のうちから上ってくる朝日の姿が分かった。肌寒かったはずですが、こういう徹夜明けでは体がぽうっとしているのでよくわからなかった。
昼。まもなく始まる大学の授業の予習をしていた。言わずもがな眠気に耐えられない。昼下がり。家を出る。恋人に電話する。声を聞くたびに、彼女が恋人であるということに対して夢幻の感覚が強まってしまうな。もっと自分を強く持ったほうがいいのだろうけど。
5月10日
起きた瞬間頭の中にtimeが流れていた。きっと夢の中でも聴いてたんだろうな。あとは、友達と「ライフ・オブ・ブライアン」を観た。キリストが生きていた頃のローマ帝国を舞台にしたイギリスのコメディ映画。
あしたからようやく始まる授業の準備をした一日。受験終了から始まったこの長い休暇、最初こそ英字新聞を定期的に買ったり毎日凝った料理を作ったりと精力的に動いていたけど、最後の方は何をしていたんだかわからないな。こんなに時間があったのに積ん読は減らなかった。
スポティファイvsラインミュージック
- 序文
- 大学入学・バイトスタートを機に音楽のサブスクを登録しようと思った。
- スポティファイとラインミュージック、今までどっちも無料会員で使ってたので、どっちでプレミアムになろうか迷う。値段はどっちもおんなじ480円なんだよね。
- スポティファイのいいところ
- シャッフル再生で流れる曲の質がいい。
- あんまり自分が聴いたことないような曲調なのに、ちゃんと心地良い曲ばっかり。コンフォートゾーンの内と外ぎりぎりのところに収まるような音楽を教えてくれる。女王蜂とかピチカート・ファイヴとかずとまよとか、ここ1年位で聴き出したアーティストは、だいたいスポティファイで見つけたと思う。
- プレイリストも質がいい。(ラインミュージック比)
- プロアーティストや感度の高い一般人はだいたいスポティファイでプレイリストを作ってる。
- シャッフル再生と同様に、スポティファイが自分向けに作ってくれるプレイリストもいい曲がいっぱい。
- 洋楽・ジャズの量が圧倒的
- シャッフル再生で流れる曲の質がいい。
- ラインミュージックのいいところ
- LINEのBGMを設定できる
- 無料会員なら月1回変えられる、有料会員なら変え放題
- 友達や恋人にシグナルを送るのに不可欠
- 最近は会えない日々が続くので宇多田ヒカルのDISTANCEとか(♪いつの日かdistanceも抱きしめられるようになれるよ)prisoner of loveとか(♪残酷な現実が二人を引き裂けばより一層強く惹かれ合う)とかをBGMにする
- キモいのは分かってる。
- 邦楽の量では勝る。
- メジャーレーベルから出てないアーティストの曲が何気に入ってたりする。
- LINEのBGMを設定できる
- 冷静になって比べるとおよそLINE MUSICを選ぶ理由がないな。BGMをころころ変えて、彼女から返ってくる反応が見たいがために、かろうじて迷えている。迷うというか、二者択一ならば迷いなくLINEを選べる。
- よし、LINE MUSICの会員登録してこよう。LINEのプレイリストとかシャッフル機能とかには微塵も惹かれないんだけどな。こうやって不合理なことを次々やっていくのが、でも楽しくて仕方ないんだ。
言葉は無響室に向かって
日記をつける習慣がある人間なのにどうしてわざわざブログを書くんだろうって、いつも首を傾げながらブログを書いている。日記を見せたことのある人なら分かると思うけど、自分がブログに書いていることと日記に書いていることの間に違いはそうない。口調のような外身に違いがあるとしても、書いてる中身は結局一緒だ。なのになぜ。
日記がある以上備忘録の役割はさして求める必要がないから、残ったブログの意義とは衆人環視の場だってことだろうな。見られる意識を持つと、思考の奔流をそのままに垂れ流すのにためらいが生まれる。自分以外への理解を許さない、自分だけが快く感じる感情の展開を、あえて乱さないといけなくなる。せめて相手の不快感を生まないくらいには身繕いしようって気持ち。こうやって人の目を気にして思考を整えることで、結果的に俺得になればいい。これぐらいしか敢えてブログを選ぶ理由が見つからない。
これが理由として弱いことは分かってる。弱いからこそ少しでも確かにするため今これを書いてみているのだし、書き終わった後も考え続けるのに違いない。これからも迷う。迷いながら書く。
自分にとってのブログを知るためには、知らずのうちにできた型を破っていくのもいい。ブログとは何かってじっと考えててもわかりやしなかったのだから。この間の音声入力で書いてみたやつも、そんな気はなかったが型破りの一つだ。音声入力で書くと、思いがけず文語体と似たような言葉が出力されてしまったので、あんまり役には立たなかったけど。
どんなことができるだろう。文末表現を変えるとか、読み手を想像してみるとか。自分の言葉は、書かれる場所がどこであれいつだって空洞に向かって発しているみたいだ。無響室に向かって。そういう性格を自分自身が愛していたから、そんな言葉ばかり書くようになってしまって、レポートも小論文もからきし苦手になってしまったのだけど。とにかく、向こう側で受け取ってくれるひとを想えない。見られる意識を持てるのがブログを書く理由だと先に言ったけど、そこでも自分は文章が読まれる可能性を見据えて文字を綴っているのであって、具体的な文章の読み手を見据えているわけではなかった。
人に向かって書いてみる、というの、いいかもしれないな。肩の力を抜けない人間だから、そうとなると想定した読者に真正面から向き合って言葉を書かなきゃいけなくなる気もする。でもちょっと楽しそう。うまくいく気はしないけどとりあえずやってみるのもいい。
幸福のため、一つ一つ感情を捨てていく
生きる理由を知らない。生きない理由なら揃っている。それでも生きることを諦めずにいられるのは、明日は今日より良くなるはずだという50年代的楽観が胸にあるからかもしれない。世界や社会がどんどん沈んでいってしまうとしても、自分だけは。
世界も社会も自分で動かすのは難しいけど、自分の幸福を判断するのはこの身ひとつでできることだった。苦しいときは、苦しいと思う感性を焼き切ってしまえばいいい。そして生活の良いところだけを見ていればいい。それだけを追っている限り今日の幸せと明日の幸せは担保される。最近何か悲しいことが起きた気がするけど、それに抱く感情がもう残ってなかった。
これは少し残念なことかもしれないな。書いてる瞬間に突然思いついたことなのだけど。一旦は抱いたはずの感情を忘却して、記憶からも薄れさせてしまった先に手にする幸福は、諸手を挙げて喜んでいいものではない気もする。
だからといって、問答に足を取られて今まで来た道を引き返すつもりも毛頭ないけど。今の自分にとって生きる理由に唯一近しい存在が、明日への期待だった。人生の意味から逃げたい。当座の満足へと逃げ込みたい。やっと勝ち取ったささやかな幸福を守るためには、不要な感情を忘れ続け、歪だとしてもこの身を欠けさせるしかなかった。
あなたへ
付き合ってる人は束縛したくなってしまうの、と語ったらおどろかれた。すこし意図とはちがって伝わった気がする。わたしはなんでもかんでも行動を束縛したいわけではないのですわたしは。わたしはあなたの一番ではないのかもしれないと疑念を抱かされてしまう瞬間が、きらいです。自分だけを見てほしいなんて言わない、そんなのはおこがましいことだ。わたしはわたしを卑下しすぎていて、あなたを自分のもとに留め置くほどの魅力があるとも権利があるとも思っていない。ただ、わたしを忘れないでいてほしい。わたしがあなたの帰り着く先であってほしい。それだけです。帰ってきてください。と祈る、何も手出しすることはできずに。